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校長の声
No.18 鎌倉から松山へ

No.18 鎌倉から松山へ 

11月7日、修学旅行第2班2日目の昼は鎌倉市内の自主研修でした。

限られた時間との相談で、鎌倉近代文学館見学は諦めて、北鎌倉の円覚寺に向かいました。目当ては円覚寺内の帰源院。生き方に悩む青年・夏目金之助(漱石)が、27歳の12月から28歳の誕生日(1月5日)過ぎまで参禅した所です。

明治27年に漱石は鎌倉駅から徒歩で北鎌倉に向かったのですが、私は生徒観察を兼ねて集合場所と鎌倉駅間の観光街を往復するために、鎌倉駅から電車に乗りました。漱石は、ついに悟りに遠く、空しく下山するしかなかった体験を小説「門」に生かしました。明治28年1月7日に下山した漱石は、4月9日には松山の土を踏みました。翌年春まで愛媛県尋常中学校の英語教師を務めた漱石は、学校の校友会雑誌に「愚見数則」という文章を書きました。当時の中学生に「~せよ」「~する勿(なか)れ」と熱く訴えた文章の最後を、漱石は「諸君今少壮、人生中尤(もっと)も愉快の時期に遭ふ、余の如き者の説に、耳を傾くるの遑(いとま)なし、然し数年の後、校舎の生活をやめて、突然俗界に出(い)でたるとき、首を回らして考一考せば、或(あるい)は尤もと思ふ事もあるべし、但し夫(それ)も保証はせず。」と結びました。これを嚆矢(こうし)として、漱石は自身の悩み・迷いの底から発する言葉を生徒たち(若い世代)への贈り物とすることを生涯の仕事にしました。「坊っちやん」も「心(こころ)」も、自身の精一杯の言葉を他者(若者)への贈り物とする人物(「おれ」も「先生」「私」も)を書いた「教育」小説です。

28歳の青年・夏目金之助は、鎌倉の心を持って松山へ来たのでした。

(写真が円覚寺・帰源院です。)

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